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世界連邦2 2006/02/03 (金)
昭和32年2月臨時岡山市議会議事録を見ると、2月26日に、世界連邦平和都市宣言が提案されている。しばらくご紹介しよう。
議長(木庭清作君)次に日程第4に移ります。
日程第4は、世界連邦平和都市宣言に関する決議についてであります。これを上程します。決議文案を書記をして朗読させます。
{書記朗読}世界連邦平和都市宣言に関する決議(案)
 文案は昨日記述したとおりです。
 提出者は片山普己雄、片山直八、賛同者・景山信義 外32名 で
全会一致で可決しています。
 次回、提案理由をご紹介します。

世界連邦1 2006/02/02 (木)
Z Z Z・・・う〜〜ん。やっと目がさめた。まだ眠いけどがんばるか。
岡山市は昭和32年2月26日に「世界連邦平和都市宣言」を採択している。・・われわれは、日本が国連加盟によって、国際社会への復帰を慶祝し、これを契機として、人類の福祉を希求する全世界の人々と相携えて、原水爆使用禁止と世界恒久平和の実現のため、岡山市は世界連邦建設に賛同する永遠の平和都市たることを宣言する・・しかし、萩原前市長は「広島・長崎を2度と繰り返すな!」という想いをこめた平和行進団の出発式を市庁舎玄関前でおこなっていたものをやめさせた。岡山ええとこ自慢ができるよう玄関前出発式の復活をもとめて行こうと思います。          田畑けんじ

Zzzzz・・・ 2005/10/18 (火)
Zzzzz・・・まだ眠い!

しばらくお休みします 2005/08/30 (火)
政党のHPはビラに該当し、衆院選は政党が候補者なので、配布できないとのことです。したがって、HPの更新ができません。残念ですが、お休みさせていただきます。では、Zzzzz・・・・・・・。         田畑けんじ

政則・吉備津宮参拝のこと 2005/08/27 (土)
さて、お話は赤松左京太夫政則が福岡城を手に入れた時代にもどる。京都では細川家、山名家が争い、政則は細川家に加勢して戦った後、播州へ帰った。そして、その後、政則は播磨、備前、美作の三国を昔のように赤松家の領国とすることになった。作州を攻め取るには赤松の武将、中村五郎左衛門の戦功が大であった。こうして太守となった赤松政則は文明12年(1480)小塩(おきしお)城を発して備前に入り、備前・一宮吉備津宮に参拝した。その行列は、随兵の衣服・馬具などは美麗をつくしてきらびやかであったというが、この権勢はいつまで続くのであろうか。     田畑けんじ

南古都村 2005/08/25 (木)
東平島の西、西平島の南にある南古都村の村名は南居都八幡宮にちなんでつけられたという。しかし、この八幡宮は明治43年(1910)に東平島の北居都八幡宮に合祭された。「備陽記」によると、村高231石3斗5升、田畑27町1反、家数50軒、人口271人であったとのこと。現在、上道中学校、小鳥の森団地、南古都団地がある。さて、吉井村から西へと順次山陽道沿いの村々を紹介してきた。順番からいえば、次は沼村であるが、沼村の紹介の前に一度、戦国時代の備前平野及び宇喜田家の足跡にもどり、辿りたいと思うのでお許しをいただきたい。     田畑けんじ

東平島村・西平島村 2005/08/24 (水)
平島の名は白鳳時代にはじまるという。慶長10年(1605)の「備前国高物成帳」の福岡庄の内にその名が見え、「備陽記」によれば、村高1176石6升、田畑60町1反4畝、家数112軒、人口634人であり、その西の西平島村は村高367石7斗、田畑27町2反、家数52軒、人口334人であったとのこと。村名の由来は北居都(こず)八幡宮を祭る宮山が平らな島に見えたことからという。この地にある天台宗福田寺は、宇喜田直家が亀山城主になった翌年の永禄3年(1560)に焼失していた福田寺を再興し、毘沙門天の木像を安置し、亀山城の丑寅(北東)の守護仏として信仰されたとのこと。現在は松下などの工場や団地、スーパーなどの進出で都市化が著しい。     田畑けんじ

浦間村 2005/08/20 (土)
備前刀・大宮物で名を知られた浦間村には浦間茶臼山古墳(国史跡)がある。全長約130mに及ぶ古墳で古墳時代前期のものだ。後円部の竪穴式石室は盗掘され、大きな窪地になっているという。鋼鉄製の矢じりや鉄剣・勾玉などが出土したとのことだが、大和の箸墓古墳の約二分の一の企画で造られているため、当時の吉備との関係を考える上で重要な意味をもつといわれている。また、村の南には茶臼山城があった。村高389石1斗2升、田畑78町8反9畝、家数82軒、人口475人であったと「備陽記」に記載がある。明治21年(1888)砂場、東平島、西平島、南古都の4ヶ村と合併して平島村となり、翌年村制を実施、昭和28年(1953)御休・角山2ヶ村と合併して上道町に、それから同46年岡山市に編入合併された。     田畑けんじ

淺川村 2005/08/18 (木)
西祖村の西に接しているのが、淺川村と浦間村である。今回は淺川村のエエとこを自慢・ご披露しよう。大日幡山の北東の村、淺川村の村名の由来はしばしば川が氾濫して浅い川のようになったことからだという。山陽道は村の北を通り、春日大明神(現・福岡神社)があった。春日大明神の宮山を大宮という。備前刀の大宮物はここで打たれたとのことだ。その残渣も出土するらしい。但し、大宮鍛冶遺跡は浦間・西部の金黒谷とする説が有力のようである。村の南の山上に三河守観阿弥の居城・火鉢ヶ城があった。村高477石8斗9升、田畑28町5畝、家数43軒、人口253人であったと「備陽記」に記されている。
田畑けんじ

西祖村 2005/08/17 (水)
山陽道・一日市村の西及び南に位置する西祖村は昔は西祖寺村と言われていたようである。かってこの村に禅宗西祖寺があり、村名も西祖寺にちなんでいるという。本村は山がかりの村であり、枝村の新町が山陽道に沿って街並みが形成され、茶屋が並んでいたという。字寺の奥に西祖寺跡があり、弘法大師を祭る大師堂があるらしい。そして、西祖の共同墓地に、宇喜田直家の生母の墓が寺山から移されているという。是非、一度行って見たいものだ。
 「備陽記」によれば、村高408石8斗2升、田畑25町2反7畝、家数69軒、人口373人であったそうな。   田畑けんじ

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