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一日市村 2005/08/15 (月)
吉井村の西にあり、南は吉井川、向かいは福岡村、西は西祖村、北は磐梨郡肩背村(現・瀬戸町肩背)に接していた。山陽道が通り、東の片上宿、西の藤井宿の間の宿場で、本陣が置かれていた。また、一の日に市が立っていたのが村名の由来とされる。堤防上には茶屋が立ち並び、にぎわっていた。「備陽記」によると、村高390石5斗1升、田畑24町2段2畝、家数75軒、人口416人であったという。村はずれの吉井川堤防に榎の一里塚があったという。その側に明治18年(1885)明治天皇がこの地を巡行したおりの記念碑が移されており、のちの村名、御休村の由来となったという。吉井川水質試験所の看板があるところから対岸をのぞむと吉井川河畔につくられたゴルフ場が見えないくらいこんもりとした小さな丘が見える。「ああ、この辺りが福岡だったんだ」と往時をしのんだ。   田畑けんじ

吉井村(2) 2005/08/14 (日)
吉井村の自慢は石津神社と倉安川の吉井水門(県史跡)である。石津大明神はかつて東山の谷にあったものがこの地に遷宮されたという。「嵯峨天皇当社へ行幸あり。今其所を嵯峨のはなといい、嵯峨天皇の腰掛石とて、今に社地へ取り入てあり」と「温故秘録」に記されており、昔から境内にある嵯峨天皇の腰掛岩をなでた手で自分の痛い箇所をなでるとなおると言い伝えられている。さて、今ひとつの自慢は吉井水門である。延宝年間(1673〜81)に完成した倉安川は吉井川の水をこの吉井水門から取水している。延長約4里の用水であるが、備前の水田を約300年以上潤してきた優れものである。水門は堤防に造られた取水口とその内部の高瀬回しから倉安川の水路出口に設置された水門からなる。水門のすぐ近くに石造宝塔(県重文)がある。足利尊氏が吉祥院に建てた利生塔だとする説と後鳥羽上皇が配流地の隠岐で亡くなったとき、奉仕する吉井の刀工が遺髪を持ち帰って宝塔を造って納めたとする説がある。    田畑けんじ

吉井村(1) 2005/08/13 (土)
長船・福岡から吉井川を渡ると吉井村、一日市村(ひといちむら)があった。吉井村は岡山城下から4里の一日市村の東に隣接し、東と南が吉井川に接している。ここが山陽道の吉井川渡河点であり、吉井の渡しと呼ばれていた。舟は8隻あったという。村高234石7斗4升、田畑14町9反、家数54軒、人口299人であったという。明治21年(1888)一日市・西祖・寺山・淺川・矢井・楢原の6ヶ村と合併して御休村(みやすむら)となり、翌年村制を施行し、大字吉井となった。その後、昭和28年(1953)平島・角山の2ヶ村と合併し、上道町となり、なお同46年岡山市に編入合併されて現在に至っているが、さて、この村の自慢は二つある。    田畑けんじ

山陽道が古津・竹田ルートへ 2005/08/12 (金)
山陽道の3度目の変遷は「鎌倉時代の牟佐ルートから古津・竹田ルートへ」であった。このルートは元亀・天正(1570〜1592)の頃まで続いた。道筋は「三石ヨり片上通り長船・福岡ヲ吉井ヘ越、古津ノ宿ヨリ直ニ西ノ方国府市場ニ至り、竹田ノ上釣ノ渡りヲ越テ福林寺縄手ヲ通り、笹々迫通りヲ経て辛川ニ至り、備中板倉ノ宿へ」と「備陽記」に記されている。この後、宇喜田秀家が岡山城を築城し、城下町を造る際に、道筋を岡山城下を通り板倉へ行くように付け替えた。備前の駅家は津高駅(現在の一宮辛川市場)であったという。その後、江戸時代になって備中庭瀬の板倉村が宿駅となり、本陣・脇本陣・旅籠・妓楼が軒をつらね、隣接する吉備津宮の門前町宮内と並んで宿場町として栄えたという。    田畑けんじ

牟佐村 2005/08/10 (水)
旭川右岸を岡山城下から北へ約8kmさかのぼると牟佐へ到着する。位置的には旭川が大きく西から東へ湾曲しているので、大原橋を渡らなければならない。したがって、牟佐は旭川左岸に位置する。その昔は赤坂郡高月郷に属していた。枝村の地蔵谷には高さ十数mほどの絶壁が北を向いており、お地蔵様の顔に似ているという。頂上にはお地蔵様が祭られているとのことで、江戸時代には乳授けのお地蔵様として賑わい、それで名所になっていたという。昔から開けたところで、山陽道の高月駅と津高駅の間にあり、「牟佐の渡り」があった。また、江戸時代には藩の船番所、凶作に備えての麦倉があったほどの交通の要衝であった。この「牟佐の渡り」は大正8年(1919)、少し下流に木橋が架けられた。ところが、昭和9年の室戸台風で流失したので、同17年(1942)コンクリートの橋になった。現在はそのまた少し北の旭川の湾曲部分に新大原橋(県道岡山・吉井線)が架けられている。       田畑けんじ

牟佐ルート 2005/08/08 (月)
次の牟佐ルートは時代がはっきりとはしていないが、鎌倉初期のころらしい。「備陽記」は「可真上村ヨリ死手ノタワ通り、牟佐の渡りヲ越、御野郡平瀬ヨリ宿へ通り、福林寺縄手・笹々迫通り、首部・楢津・辛川ヨリ備中板倉へ」と記している。赤坂〜金川ルートと比べるとずいぶん岡山に近くなった。が、それでもまだ違和感が残るのはわたしだけだろうか。現在と比べて当時の岡山市の南部のほとんどが海底だったとすればその謎が解ける。そして、そうすれば、この頃の戦の拠点が三石と金川であったことはうなずける気がしてくる。さて、それでは、牟佐とはどんなところなのだろう。
田畑けんじ

山陽道最古の道 2005/08/07 (日)
「備陽記」には山陽道最古の道を「播備之境船坂峠ヨリ三石宿を通り、野谷・金谷ヲ通り、藤野通りヨリ和気ノ渡リヲ越、磐梨郡可真上村ヨリ死手ノタワヲ越、赤坂郡矢原ヨリ金川へ渡り、野々口・吉宗ヨリ佐山通り・辛川ヨリ備中板倉ヘ」と記してある。つまり、現在の岡山市内を通っている国道2号線から考えるとかなりの北ルートとなる。船坂峠は難所中の難所で、山賊が跋扈し、女・子どもの通行は難儀を極めたと聞いている。その船坂峠から和気〜赤坂を経て、御津・金川へ出てから野々口・吉宗〜吉備津神社へと行くコースである。これは岡山市の地形の変遷と関係があるからに違いない。次はいつどのように変わっていったのだろうか。   田畑けんじ

伊福郷 2005/08/06 (土)
松田権守元隆が城主となった伊福郷は万成村、上伊福村、下伊福村辺りになると思われる。現在の岡山駅西方に位置し、奉還町3丁目辺りが東端になるようだ。富山に城を築いたとあるので万成村も含まれたのかも知れない。津島村、南方村が所領の範囲だったかどうかはよくわからないが多分所領の一部だったと思われる。戦乱に次ぐ戦乱の中、武家たちが村々を獲り合っていたのだから、お百姓は大変だったに違いありません。村々の詳細はまた記述する機会もあるだろうからここでは省略することとする。さて、山陽道は上伊福村と下伊福村の間を通っていた。街道の重要性はいまさら言うまでもないが、戦略上も街道沿いの重要な村々であったに違いない。そこで、岡山ええとこ自慢の手がかりとして岡山市内の山陽道の変遷を見てみることとしよう。   田畑けんじ

福岡城が政則の手に 2005/08/02 (火)
赤松次郎法師が元服したのは寛正3年(1462)11月26日、11歳であった。将軍義政の一字を賜り、赤松左京太夫政則と名乗った。それからまもなくの応仁元年(1467)のこと、細川勝元と山名宗全が権力を争い、京都で戦をおこした。全国の大名たちがその両家に属して互いに戦った。政則が16歳のときであった。彼は細川方に属し、5月10日には播磨に赴き、各地の城塞を攻め取った。そして、備前の国に攻め入った。福岡にいた小鴨大和守は三石に赴き、防戦した。しかし、政則に押され、撤退した。そこで、赤松家に内通した家来の「ここを出て・・・」の進言を真に受けた小鴨は城をでた。赤松側はそこで小鴨を討ち果たす予定であったが、さすが小鴨も豪の者、攻撃をかわし、かわししながら、美作へ脱出した。こうして福岡城は政則の手に落ちた。政則は三石城に浦上則宗を置いて守護代とし、松田権守元隆を伊福郷(現岡山市伊福町・伊島町付近)の領主として八幡山(一説には富山)に城を築かせ、備えを固めた。

赤松家再興・三石に着陣 2005/08/01 (月)
三代で終焉を迎えた赤松家の家臣は南朝を騙して神璽を奪い、赤松家を再興しようと計画を巡らせた。幾度かの失敗はあったが、目的を果たし、南朝から神璽を騙し取り、北朝に奉還した。この労に対する恩賞として、赤松次郎法師(嘉吉の乱後、建仁寺の和尚・天隠が育てた満祐の弟・義雅の子で後還俗して後の名を時勝というが、その時勝の子)が赦免され、加賀半国と新田庄(現備前市・和気町南部の地域)、出雲国・宇賀庄、伊勢国高宮保を賜った。そこで和気郡新田庄を固めるため、宇野上野入道を大将に兵士70〜80人ばかりが三石宿に着陣したのは寛正元年(1460)6月19日のことであったという。もちろん、この報が福岡に届くや、山名方が防戦に撃ってでたのはいうまでもない。
田畑けんじ

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