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拠点が三石から福岡へ 2005/07/28 (木)
鎌倉時代は備前の守護職が誰であったかはっきりしない。室町将軍の初めの頃、文和4年(1355)に赤松律師則祐が備前の守護職を賜った。赤松氏は播磨の国の白旗城(兵庫県赤穂市上郡)にいて、浦上掃部助宗高を三石城に置いて、備前の国を治めさせた。赤松家の3代目である左京太夫満祐が将軍・義教に逆心を抱き、嘉吉元年(1441)6月24日、京都で将軍を殺害した。京都から討ってがだされた。山名修理太夫義理(よしまさ)・山名相模守教之(のりゆき)・山名左衛門佐持豊・細川讃岐守持常らであった。彼らは白旗城を攻め、9月10日に落城させた。この戦功で、山名相模守教之が同年、備前の国を賜った。そこで、小鴨大和守を邑久郡福岡(現:瀬戸内市邑久)に置いて備前の国を治めさせた。今は吉井川の川原である福岡の地には夏の風が吹いている。     田畑けんじ

梟雄とは修羅の道を歩んだ男 2005/07/26 (火)
宇喜多直家は梟雄と呼ばれる。それはなぜなのだろう。7.22のなぜに答えて、考えてみよう。祖父、能家が暗殺された時、直家はわずか6歳だった。以後、父とともに放浪の人生をおくったが、その生活は悲惨だったに違いない。父の病死の後、14歳で浦上宗景に仕えたが、優秀な人物だったので、次第に浦上家家臣団の中で頭角をあらわした。そして、直家は祖父の復讐をはたすため、島村盛実を暗殺した。舅である中山信正を殺害した。龍口城主税所元常を殺害した。さらに同じく舅、後藤氏を殺害した。さらに、備中・三村家親、金川城主・松田氏、岡山城主・金光宗高を暗殺し、没落させ、勢力を広げていった。その後、安芸の毛利氏と手を結んでいたが、羽柴秀吉が中国に進出してくると、織田方と手を結び、毛利氏と合戦を繰りかえした。これが梟雄・宇喜多直家の生きてきたすさまじい修羅の道であった。   田畑けんじ

砥石城とはどんな城だったのだろう 2005/07/25 (月)
夏の暑い日だった。娘と砥石城をめがけてふーふー言いながら登った。城のある山は小さな岡程度の山であったが、汗を流しながら、わずかの距離の藪こぎもしながら、歩いた。「おとうさん〜〜まだあ〜〜」の声を聞きながら。当時はどんなだったんだろう。もっと整備されていたのだろうか。辺りがよく見えるように木立は低く切られていたのだろうかなあ。そうだ。そうに違いない、などと思いながら頂上付近に着いた。尾根に沿った細長い縄張りだったような記憶がある。そこからは邑久・千町平野が一望できた。娘が「おとうさん。ここはええがー、よーく見えるがー」と張りのある声をだした。建物はおそらく砦のようなものであったに違いない。ここが、岡山を築いた彼の生まれた出発点なのだと思うと、少し緊張した。   田畑けんじ

宇喜多直家・砥石城にて産声をあげる 2005/07/22 (金)
宇喜多直家は享禄2年(1529)に生を受け、天正9年(1581)に亡くなっている。父は宇喜多興家。母は不詳。砥石城は備前国邑久郡豊原荘(現:瀬戸内市邑久町)にあった。もともとは在地領主であったが、下克上の世の常で、6歳の時、祖父の能家が西隣の高取山・城主の島村貴阿弥に攻められて自害した。直家は父とともに城を逃れ、備後・備前を転々としている間に父・興家が病気になり、亡くなった。天文12年(1543)、14歳で旧主家・浦上宗景に出仕し、初陣で戦功をあげた。翌年には乙子城の城主に抜擢され、数々の戦功をあげた。岡山の創設者である宇喜多直家は戦国備前を制した梟雄と呼ばれる。それは、なぜなのだろう。   田畑けんじ

歴代城主は?岡山城(7) 2005/07/21 (木)
明治になって廃城となった岡山城は明治15年(1882)3月、壊された。残ったのは天守以下4棟だけ。そして、昭和20年(1945)6月29日の岡山空襲で焼け落ちるまで存続した。
天正元年から明治4年の廃藩置県まで岡山城を守護した城主は4家14代、(創)宇喜多直家、(初)宇喜多秀家、(2)小早川秀秋、(3)池田忠継、(4)池田忠雄、(5)池田光政、(6)池田綱政、(7)池田継政、(8)池田宗政、(9)池田治政、(10)池田斎政、(11)池田斎敏、(12)池田慶政、(13)池田茂政、(14)池田章政である。因みに、池田家の初代は、池田恒興、2代は輝政、3代は利隆であった。さて、備前の国で活躍した戦国大名、宇喜多直家とは、どんな人物だったのだろう。宇喜多直家は備前のどこを転戦したのだろう。     田畑けんじ

金烏城・岡山城(6) 2005/07/19 (火)
岡山城が建築された時期は、慶長2年(1597)。豊臣秀吉による天下統一が終わり、全国で城と城下町の整備が促進された時期であった。関が原合戦後のことでこのころ築城された天守閣はすくない。岡山城の外には会津若松城、松本城、広島城などがある。岡山城の天守閣は「望楼型」と呼ばれ、外壁に黒塗りの下見板を張っていた。そして、金箔瓦で彩を添えていたといわれ、白鷺城と呼ばれ、美しい容姿を誇る姫路城とよく対比される。思えば、故浅野市議が10数年にわたって壇上で「金烏城を再現せよ」と質問していたのを思い出す。そして、平成7年12月〜平成8年6月にかけて、天守閣鯱ほか金箔瓦工事がおこなわれた。工事費は1億7千万円を要した。当時の記憶では、金箔瓦より、足場代の方が高かった。この金烏城が本物であったなら姫路城と同じように世界遺産に登録されていたかも知れないと思うと戦争というものの文化破壊の荒唐無稽さを感じざるをえない。  田畑けんじ

西大寺・朝市 2005/07/17 (日)
毎月第三日曜日は西大寺の朝市がある。朝市では京橋朝市が有名だが
「西大寺」もいいですよ。向州公園(観音院南)で朝6時頃から始まります。まずにぎやかに、太鼓の音。古都里(西大寺東地域の地名)の名物おじさんが太鼓の叩き方を教えてくれます。その太鼓の洗礼をうけ会場に入ると地元の方々出店が並びます。散らし寿司、ラーメン、喫茶店のコーヒー、うどん、アナゴの焼きたて・・・・地元以外では、鴨方や倉敷、高梁など県内各地から出店があり、私はいつも倉敷のグランさんのチーズケーキや県北の卵がお気に入り。野菜やお花は安いしほんとまわるだけで楽しいですよ。
毎回朝7時頃に顔をだすのですが、各お店で話し込んで九時ごろまでいます、そうそう大事なお知らせですが、今年から私の父の店が美星町から出店しています。そば粉でつくったかりんとうとドーナツです。ドーナツはその場であげてくれます。あまくなくヘルシーです。ぜひ!!
記・竹永みつえ

 平城にちかい平山城・岡山城(5) 2005/07/15 (金)
岡山城は平山城です。平野の中の丘陵に城郭の主要部を置いたものですが、姫路城、松山城、高知城など他の平山城と比べると標高がきわめて低く、平山城というよりも、むしろ平城といった趣です。本丸を岡山に建て、二の丸内郭(西郭)を石山(直家時代の本丸)に置き、桜門で東南の郭、そして西端に西の丸を置き、西から南にかけて三の曲輪、三の外曲輪の内、三の曲輪の内が置かれ、備えを厚くしている。ところが、本丸の北から東にかけての防備は薄くなっていて、旭川だけ。いや、後楽園もいざという時の備えの一つでしたが・・・。本丸の東の石垣の下の木陰でお昼の弁当をいただきながら、旭川の水面や対岸の後楽園のみどりを眺めているとほっとします。お友達や恋人との楽しいお昼のひと時にもいい場所ですよ。    田畑けんじ

掘割の町・岡山城(4) 2005/07/14 (木)
旭川の流れをつけかえるという大工事を含む壮大な築城工事は8年を要したといわれる。北側に旭川、本丸を囲んで内堀、中堀、外堀があり、その外側には旭川から引き込んだ農業用水としても利用された西川があり、岡山は水の豊かな掘割の町でした。今はわずかに内堀が残っているにすぎませんが、この内堀の水はどこから引き込まれているのでしょう。わたしの謎の一つです。岡山城にはたくさんの櫓や城門がありましたが、明治初期に取り払われました。惜しいことをしたものです。歴史的な物を大切にするという思想が日本人は弱いのかも知れません。権力が歴史・文化の保存を否定するのだと言った方がいいのかも知れませんが・・・。岡山城の石垣は、宇喜多時代は「野面積」でした。小早川時代は「算木積」、池田時代は「打込萩」ですが、中でも古式の「野面積」は貴重な文化遺産です。ぜひ、お出かけいただいて、その違いを確かめていただきたいものです。
田畑けんじ

不等辺5角形の天主台・岡山城(3) 2005/07/14 (木)
宇喜多直家は石山に城を築いたが、合戦に明け暮れた。直家は本格的な城郭の建設に着手できないまま、天正9年(1581)に没した。それから16年後の慶長2年(1597)に、豊臣5大老の一人になっていた宇喜多秀家が3重6階の堂々たる天守閣をもつ岡山城を築城した。この天守は全国的にも珍しい不等辺5角形の天守台をしていて、関が原合戦以前の古式を伝える貴重な天守だと言われている。   田畑けんじ

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